山梨の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)

■甘草屋敷(旧高野家住宅)
 (JR中央線塩山駅前)
 塩山駅北口前の大きな木造民家が甘草屋敷である.甘草屋敷の名称は,1720年(享保5),幕府の命により薬用植物の甘草を栽培し,納めたことに由来する.「甲州甘草文書」によると,八代将軍徳川吉宗の治世に,幕府の採薬使・丹羽正伯が甘草を見分した結果,幕府御用としての栽培と管理が高野家に申し渡された.屋敷内に配置される主屋・付属屋の合計9棟は,すべて重文に指定されている.甲州を代表する切妻造民家の堂々とした屋敷構えは歴史をいまに伝える.過去と現在をつなぐ歴史公園として訪れてみたい.


■小川正子記念碑
 (JR甲府駅よりバス10分)
 ハンセン病患者救済に生涯をかけた女医・小川正子は,1902年(明治35)春日居村(現春日居町)に生まれ,甲府高等女学校(現甲府西高校)を卒業後,結婚するが3年足らずで離婚.その後医学を志し,東京女子医学専門学校(現東京女子医大)に入学した.卒業後,国立療養所長島愛生園にて7年間,社会から嫌悪され虐待されていたハンセン病患者を救うべく,尊い一生を捧げた.
 高知県の僻地にある山村,あるいは瀬戸内海の孤島をめぐり,長い年月差別と偏見に泣いてきた「らい患者」の検診活動をまとめた『小島の春』を上梓したのが,1938年(昭和13)である.そのころから結核を患う身となり,1943年(昭和18)に41歳の生涯を終えた.
 母校である甲府西高校の校庭の一角にある記念碑には,「夫と妻が親とその子が生き別れる悲しき病世に無からしめ」の歌が刻まれている.

■小川正子の墓
 (JR春日居町下車徒歩15分)
 ハンセン病は,らい菌の感染によって起こる慢性感染症で,らい菌の発見者であるノルウエーのアルマウエル・ハンセン医師の名にちなんでつけられた.感染力はきわめて弱いが,感染から発病までの潜伏期間が長く,平均して3〜4年,なかには10〜20年以上経って症状の現れる人もあった.潜伏期間が長いため,結婚し家庭をつくりあげたころに発病することも多く,家庭に与える悲惨さがとても大きいものであったことは,『小島の春』に詳しい.
 春日居町郷土資料館の一角に,特別展示室として併設された小川正子記念館がある.展示室には,正子の年譜や胸像,短歌のほか,自筆の日記などがある.当時は結核に罹って死亡すると衣服などはすべて焼却されてしまうため,正子の遺品はわずか数点が残されているだけである.
 正子の墓は,春日居町(笛吹市)佛念寺の一隅にある.墓碑の裏には,正子の好きだった次の言葉が刻まれている.
 「生きてゆく日に愛と正義の十字路に立たば必ず愛の道に就け」

参考資料:「医界風土記―関東・甲信越編(思文閣出版)」,「小島の春−ある女医の手記(小川正子・長崎出版)」,「悲しき病世に無からしめ―ハンセン病患者救済に尽くした女医小川正子の生涯―(小川正子記念館・春日居町郷土館)」,山梨県甲州市ホームページ(http://www.city.koshu.yamanashi.jp)
(医療科学通信2006年1号)

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