東京の医跡Part 2
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)

写真1



写真2

■杉田玄白と前野良沢の墓
 中央区明石町,聖路加国際病院前の道路の一角にある,「蘭学の泉はここに」と碑文に刻まれた「蘭学発祥の地記念碑」については,本誌通巻6号で触れた.『解体新書』の翻訳を指揮した前野良沢の家宅が近くにあったからであるが,『解体新書』に訳者として杉田玄白の名前はあっても,翻訳にたずさわった前野良沢の名前はない.そこから,玄白が名声を独り占めにするために良沢の名をはずしたのだという説もある.一方,久遠山栄閑院から発行されている『先駆者杉田玄白先生 その生涯と功績』によると,西洋医学,ましてや解剖学について偏見が強かった時代に,玄白が良沢を迫害から守るためにあえて名を隠させたのでは,と推測している.
 杉田玄白は1817年(文化14)に85歳で一生を終えた.九幸院仁誉義真玄白居士という戒名が贈られ,港区愛宕の栄閑院(猿寺)の墓地にその墓がある(写真1:地下鉄日比谷線神谷町駅徒歩10分).
 前野良沢は1803年(享和3)に81歳で一生を終えた.杉並区梅里の慶安寺,前野家の墓域の中央に,良沢より先に亡くなった息子と妻と一緒に合葬されている.背の低い幅広の墓石には3人の戒名が刻まれており,薬山堂蘭化天風居士とあるのが良沢のおくり名で,「享和葵亥歳十月十七日」と死亡年月日が刻まれている(写真2:地下鉄丸の内線新高円寺駅徒歩10分).



写真3


写真4

■お玉ヶ池種痘所跡と善寧児(ジェンナー)先生碑
 江戸時代,天然痘は最も恐ろしい伝染病のひとつで,多くの人命を奪った.1849年(嘉永2)に大阪で緒方洪庵が,江戸では伊藤玄朴が種痘の実験に成功した.玄朴は幕府の許可を得て神田お玉ヶ池に種痘所を開設,後にここが幕府直轄の西洋医学所と改称され,東京大学医学部の前身となる(写真3:地下鉄日比谷線小伝馬町駅徒歩5分).
 また,多摩の新井村(日野市)に生まれた湯浅芳斎は,大阪の緒方洪庵の適塾に入門,相原村(町田市)の青木家の養子になって,幕末から明治にかけて種痘の普及に尽くした.青木芳斎の義父得庵の妻喜代が,晩年,青木家菩提寺の清水寺に種痘普及を記念して建立した善寧児(ジェンナー)先生碑がある(写真4:JR横浜線相原駅徒歩10分).


写真5

■ベルツとスクリバ
 エルウィン・ベルツ(1849〜1913)は内科教師として26年間,ユリウス・スクリバ(1848〜1905)は外科教師として20年間,東京大学において学生の指導と診療にあたった.2人は最後まで教鞭をとったドイツ人教師であり,わが国の医学教育に多大な貢献をした.その偉業を称え,偉徳を残すために立てられた胸像が東大病院前にある.右はスクリバ(フロックコート),左がベルツ(背広)である(写真5:東京大学医学部附属病院前).
 なおユリウス・スクリバは,青山霊園の外人墓地に家族とともに眠っている(写真6:地下鉄千代田線乃木坂駅徒歩10分). 

参考資料:「医界風土記―関東・甲信越篇(思文閣出版)」,「工藤寛正.図説東京のお墓散歩(河出書房新社)」,http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/ogu/o009/o009t.htm
http://www.kikanshi.co.jp/shinbashi/jisya/sarudera/sarudera.htm
(医療科学通信2005年2号)

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