東京の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)
 昭和34年,日本医学会総会の記念事業として建てられた「蘭学発祥の地」記念碑をはじめ,東京には解剖に関する医跡が多い。


■蘭学発祥の地記念碑(地下鉄日比谷線築地駅より徒歩5分)
 中央区明石町にある聖路加国際病院前の道路の一角,蘭学発祥の地に建てられた記念碑がある。この記念碑は一風変わった外観を呈し,ちょうど本を開いて立てた形で,右側の面には『解体新書』序図巻に掲げられている形体名目篇図の男子の背面図がそのまま模刻され,左側の面には「蘭学の泉はここに」と題してこの碑を建てた由来が刻まれている。




■観臓記念碑(JR常磐線南千住駅前,徒歩2分)
 1771年(明和8),杉田玄白ら3人の医師が小塚原刑場で腑分けに立ち合い,オランダ解剖書の正確さに深い感動を受け,『解体新書』の翻訳がなされた快挙を記念した「観臓記念碑」が南千住駅前の回向院の境内に建っている。日本最初の解剖は,1754年(宝暦4)に,山脇東洋が京都において腑分けに立ち合い人体構造を観察したのが最初であるが,杉田らの解剖が近世日本医学史上に特筆される理由は,オランダ解剖書『ターヘル・アナトミア』を1冊の辞書もなしに翻訳出版したことである。

■解剖人墓(地下鉄日比谷線北千住駅より徒歩10分)
 北千住駅近くの清亮寺に「解剖人墓」がある。墓碑には,「明治初年日本医学のあけぼのの時代明治三年八月当山で解剖が行われました。……」とあり,その下に解剖された11名の法名,没年月日,出身地,俗名が刻まれている。第1例は1870年(明治3)であり,明治時代の刑死人解剖の第1号と考えられる。





■美幾女墓(地下鉄三田線・大江戸線春日駅より徒歩15分)
 病死を予期した美幾女は,死後,解剖のために提供する篤志解剖の勧めに応じ,父母・兄連署のうえ,東京府に提出した。その後1869年(明治2)8月,34歳で没し,旧下谷和泉町の大学東校において篤志解剖の第1号が行われた。美幾女の墓は文京区白山の念速寺裏手墓地にある。



■旧養生所の井戸(地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅より徒歩15分)
 美幾女の墓のある念速寺からすぐにある小石川植物園は,1722年(享保7),日本最初の入院施設を持つ病院,小石川養生所が設けられたところである。桜林の散策だけでなく,園内には小川笙船(通称赤ひげ先生)たちが使用したと伝えられる「旧養生所の井戸」が残っており,また日本庭園に面して建つ旧東京医学校本館も学会発表の合間に訪れていただきたい東京の医跡のひとつである。

参考資料:「医界風土記―関東・甲信越篇(思文閣出版)」,「古地図ライブラリー別冊 江戸東京散歩(人文社)」,「工藤寛正 図説東京のお墓散歩(河出書房新社)」,
文京区HP(http:www.city.bunkyo.tokyo.jp/


(医療科学通信2004年2号)

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