埼玉の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)


 ■本邦帝王切開術発祥の地
(飯能市坂本にある本橋家の敷地内)
 嘉永5年(1852)4月25日(旧暦)に,武州秩父郡我野村正丸(現埼玉県飯能市正丸)の山中で,一手術が行われた。同地の妊婦本橋みとが逆児の難産で苦しみ,胎児はすでに産婦の胎内で死亡,そのままでは母体の死も避けられないことから,窮余の策としてわが国最初の帝王切開術が実施されたものである。
 施術者は秩父郡大宮郷(現秩父市)の医師伊古田純道と地元南川(現飯能市大字南川)の医師岡部均平の両名であった。窮余の策として行われたものの手術は見事に成功し,産婦の一命をとりとめている。術後,化膿性腹膜炎を併発し,経過は必ずしも順調ではなかったが,55日後にようやく全治したとある。




■史跡荻野吟子生誕の地
(妻沼町の利根川堤防沿いの荻野吟子生誕之地記念公園内)
 荻野吟子は,1851年3月3日 武蔵国播羅郡俵瀬村(現埼玉県大里郡妻沼町)の代々庄屋を務めてきた旧家荻野家の五女として生まれ,恵まれた環境に成長。17歳になった吟子は財産家の長男と結婚したが,夫に性病(淋病)を移され2年後には離婚。その後の治療で男性医師により診療を受けた羞恥屈辱感は吟子にとって耐え難く,このことがきっかけで女医になる決心をする。
 22歳になった吟子は周囲の反対を押し切り上京,女医を目指した。明治前期の封建的社会において女性であるがゆえのさまざまな困難を克服してひたすら学問に励み私立医学校「好寿院」に入学,3年後に卒業。さらに幾多の障壁を乗り越えて医術開業試験に合格,本郷湯島三組町に念願の「産婦人科荻野医院」を開業した。明治18年(1885)吟子34歳,日本で初めての女医誕生である。

参考資料:「埼玉県医師会史」「医界風土記―関東・甲信越編(思文閣出版)」
「明治医事往来(新潮社)」「花埋み(文藝春秋)」
埼玉県のホームページ(http://www.pref.saitama.jp
(医療科学通信2003年1号)
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