神奈川の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)
写真1

■ヘボン博士邸跡(JR関内駅,徒歩15分)
 明治初期,わが国の医学の大勢がオランダ医学からドイツ医学に変わろうとしていたころ,神奈川,横浜ではアメリカとイギリス医学が行われていた。前者の代表はヘボンとシモンズであり,後者のそれはウイリスであった。
 ジェームス・カーチス・ヘボン(1815-1911)は医師として活躍しただけでなく,プロテスタントの宣教に一生を捧げた。その手段として,住民との理解を深めるため,徹底的な日本語の研究を始め,ヘボン式ローマ字による「和英語林集成」の編纂,「新・旧約聖書」の翻訳などを行っている。ヘボン博士は安政6年(1859)10月,宣教医として横浜開港と同時にクララ夫人とともに来日し居留地の最初の住人となった。文久2年(1862),貧民相手の施療所を設けた中区谷戸橋際のヘボン博士の居住地は,現在,横浜地方合同庁舎の一角にあり,ヘボン博士の横顔の銅製レリーフを中央にはめ込んだ大きな石の顕彰碑とヘボン博士邸跡という木製の解説板が道路に面して建てられている。当時のヘボン邸の写真は横浜開港資料館に残されている。写真1は,マリンタワーの南隣り,横浜地方合同庁舎の敷地内にある「ヘボン博士邸跡」記念碑である。


写真2


写真3


■野口英世博士ゆかりの旧細菌検査室(京浜急行能見台駅,徒歩15分)
 明治32年(1899年),伝染病研究所の助手であった22歳の野口英世は,北里柴三郎の推挙によって横浜検疫所長浜措置場に検疫医官補として赴任し,中国牛荘へ出発するまでの5か月間勤務した。
 海に面した広大な敷地内には,細菌検査室,隔離病棟などのほか,火葬場まで数多くの建物が点在していたと言う。同年6月,横浜港に入港した「亜米利加丸」の船倉で苦しんでいた中国人の船員からペスト菌を検出し,国内流行を水際で防いだ経緯は,渡辺淳一の『遠き落日』に詳しく記されている。野口英世の名を有名にした「細菌検査室」が,平成9年5月にオープンした長浜野口記念公園内に保存されており自由に見学できる(写真2)。そこから100メートルほどの場所にある横浜検疫所入口脇に,野口英世博士をたたえる記念碑がある。碑は高さ2.5メートルほどの合成樹脂製で,途中が捩じれているのは,らせん形のスピロヘータ,すなわち野口博士の研究対象であった微生物を表現している(写真3)。

写真4



写真5
■伝染病死者の墓碑(根岸線桜木町駅,保土ヶ谷車庫行バス久保山霊堂前下車)
 国立横浜東病院近くにある久保山墓地(横浜衛生局管理)には,戊辰戦争における官軍の戦死者や西南戦争で戦死した巡査兵士の墓碑のほか,横浜における伝染病死者の碑がある。
 K18区にある高さ180センチほどの三角形の自然石に「悪疫横死諸群霊墓」と刻まれた碑には,「記曰明治十九年流行病之際無葬者残骨参百餘哀不忍見有志者謀久保山埋葬明治廿六年春彼岸為有無縁於大光院営施餓鬼大法会建碑云云」と4行の漢文が見られる。厚生省医務局の『医制百年史』には,明治19(1886)年,全国でコレラにより10万8405人の死亡があったとある。横浜でも多くの患者が死亡。碑文は,無縁者の残骨300余を埋葬,明治26年に大光院で大法会を行い,碑を建てたということであろう(写真4)。もうひとつの墓は,K07区の冊側にある。1メートルほどの高さの四角い墓石の正面には「傅染病死亡者之墓」とあり,側面には「自明治廿年至同三十年,三百九十一名合葬」と記されている。崖際の墓石の前に立つと墓地内を吹き抜ける風が冷たく,かつての伝染病の怖さを物語るだけでなく,苦悶のうちに落命した病死者の怨念が伝わってくる(写真5)。
 参考資料: 「医制百年史(厚生省医務局)」「医界風土記─関東・甲信越編(思文閣出版)」「明治医事往来(新潮社)」「遠き落日(角川書店)」と神奈川新聞社「ふるさとGuide(//www.kanagawa-np.co.jp/furusato)」
(医療科学通信2003年2号)

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