宮城の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)
■コレラ碑(叢塚)(仙台駅よりバス虹の丘3丁目下車,徒歩20分)
 仙台市北部の台地に,緑豊かな「水の森公園」がある。水の森市民センターを起点とする探索路の左側の草むらに,端然とした一基の碑があり,さらに西北に100メートルほど行った分岐部の角に自然石の断碑がある。前者には「叢塚」と大きく読み取れ,後者には「焼場供養塔」の文字が記されており,これらはともに,明治15年のコレラの悲劇を伝えるもので,叢塚の脇には以下のような説明文がある。「この地は明治15年夏に大流行したコレラにより死んだ人達の死体焼場跡である。死体数276とあり,残骨と灰で築かれた塚の上に立てられたのがこの供養碑である。」
 建碑は明治15年11月で,当時の宮城控訴院長・西岡逾明判事の慰霊の碑文は,初めにこの病気の由って来る源と酷烈なる伝染力について記し,衛生知識を持たなかったことが死をまねいたのだと断じ,秋気爽やかで,もはや呻吟の声の止んだ山野に立って当時を回想しての哀感,ことに遺族の拾い残した骨片の堆積が山をなしていることの哀しみを述べ,「霊あるならば祭祀の礼に感じて泉下に冥せよ」との呼びかけは哭々として迫る。

■赤星研造の墓(仙台駅よりバス輪王寺前下車,徒歩10分)
 東北大学医学部附属病院の概要を見ると,文化14(1817)年に創設された仙台藩医学校の施薬所を始まりとするとある。その後,明治4年の廃藩置県により,私立の共立社病院,さらに仙台公立病院と改称され,明治12年に県立宮城病院となり,長く東北の医界に指導的役割を果す。このとき,県立宮城病院初代の院長に迎えられたのが福岡県士族,赤星研造である。赤星研造は,ドイツ・ハイデルベルク大学卒業の外科医で,慶応2年,藩命により留学し,明治初年の帰朝に際しては東大第一外科の初代教授に迎えられている。
 初夏の5月,仙台市青葉区の輪王寺内の基督教墓地に赤星研造の墓を探した。輪王寺にある,伊達政宗の八男・竹松丸,伊達政宗の正室・愛姫の御母堂をはじめ,赤痢菌の発見者志賀潔の墓前には花が手向けられていたが,宗派の違う耶蘇教の墓は,本堂傍らの墓群奥の小高い丘の北山基督教墓地にひっそりと佇んでいた。松の木立の木漏れ日を浴びて,縦長の2基の墓が,蒼然としてつつましく立っていた。苔を擦ってよく見ると,向かって右の墓には,赤星家之墓,1メートルほど左側の墓には,赤星研造之墓と刻されている。明治の初年,ドイツ留学の経験もある日本の大外科医として君臨し,宮城県知事と同等の待遇を受け,県立病院長および宮城医学校長として,後年東北大学医学部へと発展する礎石を築いた大医人としては寂しい墓である。

■幻の解剖供養碑(仙台駅より地下鉄愛宕橋駅下車,徒歩10分)
 地下鉄愛宕橋駅東側にある日連正宗佛眼寺の本堂左に,塔の頂上に卵型の石を載せた「木村寿禎解剖事蹟之碑」がある。また,県道22号仙台泉線の地下鉄八乙女駅近くにある「仙台藩刑場跡」の説明には,「……この地は,長崎でオランダ医学を学んだ木村寿禎が,腑分(解剖)を行ったところといわれ,七北田刑場腑分供養碑が立ててあった。」とある。なぜ幻かと調べると,明治9年に仙台市郊外七北田において国道の道路工事中に一基の古碑が発見された。楕円形の天然石の表面に,「供養」の2字を刻み,下に欧文2行,その左側に「寛政10年12月19日」とあった。多分耶蘇教の宣教師などの碑であろうと保管するなか,明治23年の台風で七北田川が氾濫し,保管していた個人の家も浸水,土砂崩壊し,現在東北大学附属図書館医学分館にその碑文の拓本を残して,碑はまた土中深く埋没してしまった。不思議な因縁である。昭和8年,寿禎百年祭が行われ,解剖事蹟記念碑を菩提寺の佛眼寺に建立し,その塔の頂上に,ありし日の供養碑を模した石を祀ったのである。

 「メモランダム―市井の医師の小さな真実―村主巖(日曜随筆社)」「医界風土記―北海道・東北編(思文閣出版)」「輪王寺HP(www.rinno-ji.or.jp)」「東北大学附属病院HP(www.hosp.tohoku.ac.jp)」
 
(医療科学通信2003年3号)

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