千葉の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)



■佐倉順天堂記念館(京成佐倉駅南口より徒歩20分)
 佐倉順天堂は,佐倉藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医・佐藤泰然が1843(天保14)年,佐倉本町に蘭医学塾を開いたことに始まる。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ,佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。泰然を中心に膀胱穿刺,帝王切開,卵巣水腫開腹,乳癌摘出など当時としては最高水準の外科手術が実施されたと,高弟である関寛斎の『順天堂外科実験』に書き残されている。
 現在,1858(安政5)年に建てられた建物の一部が残り,これを記念館として公開し,当時の医療器具や書籍などが展示されており,西洋医学の普及に貢献した「順天堂」の功績を知ることができる。








■関寛斎(JR東金線東金駅徒歩5分)
 泰然の門下に関寛斎がいる。寛斎は1830(天保元)年,上総国山辺郡中村(現東金市)の農家に生まれ,14歳のとき関俊輔の養子となって泰然に就いて医学を修めた。写真は東金中央公園にある寛斎の胸像である。
 1863(文久3)年,寛斎は阿波藩医となって阿波藩(徳島県)に移り住み,1869(明治2)年には藩立徳島病院長となっている。1873(明治6)年には現在の徳島市中徳町において診療所を開設し,以後30年の長きにわたって市民の診療に従事した。徳島での開業医・寛斎は,貧しい者からは代金を得ず富める者からもらい,自らは質素を旨とした生活を送るなど「赤ヒゲ」を思わせるような人道主義を実施し,生活困窮者から慈父のように敬愛された。「この地にゆかりの関寛斎の遺徳を偲び慈愛と進取のこころに学ぶべくこの碑を建立する」と,徳島県立城東高校玄関にある「慈愛進取の碑」に記されている(JR牟岐線徳島駅バス10分または徒歩15分)。



■共立病院跡碑(JR千葉駅よりバス10分)
 千葉神社の反対側にある猫の額ほどの公園(院内公園)の一角に「共立病院跡」という記念碑が立っている。「明治7年7月町村有志の寄金と県令の意向とにより,本碑の南方約百メートル,街道に南面して共立病院が設立された。それは明治9年10月千葉公立病院として吾妻町三丁目に移され,その後数回の変遷を経て千葉大学医学部となる端緒であった」と碑文にある。
 1890(明治23)年9月に,現在医学部がある亥鼻台に新築病院ができ,1901(明治34)年4月,千葉医学専門学校となった。1923(大正12)年,千葉医専は千葉医科大学に昇格,1949(昭和24)年5月に千葉大学が成立,千葉大学医学部となり今日に至っている。

参考資料:「医界風土記―関東・甲信越編(思文閣出版)」,「佐倉順天堂門人調査中間報告書(佐倉日蘭協会)」,「風媒花(佐倉市教育委員会)」,千葉市緑と水辺のホームページ(www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/ryokusei/midoritomizube/

(医療科学通信2004年1号)

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