長崎の医跡
諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部)

■医学伝習所跡
(長崎市万才町:長崎グランドホテル前,
   路面電車・西浜町下車10分)
 長崎大学医学部の前身で,「近代西洋医学教育の父」と呼ばれるオランダ海軍の軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトは1857年(安政4)に来日した。「医学伝習所」は海軍伝習所があった長崎奉行所内に設けられ,幕府の医官松本良順(1832〜1907)や長与専斎(1838〜1902)らに近代医学を講じたところで,日本における最初の西洋医学校である。ちなみにポンペが最初の講義を行った11月12日は長崎大学医学部の創立記念日になっている。




■小島養生所跡
(長崎市西小島町:長崎市立佐古小学校,
  路面電車・築町下車20分)
 ポンペ来日の翌年,コレラが流行り多数の死者が出た。このときポンペは大勢の患者の治療にあたるなかで,民衆のための病院設立を熱望するようになる。そして,1861年(文久元),長崎港を見下ろす小島(現:長崎市西小島)の丘に日本初の近代的な病院と言われる「小島養生所」,さらに翌年にはその隣に「医学所」が新設された。
 その後,この医学所は何度かの名称変更を経て,現在の長崎大学医学部・付属病院へと発展していくことになる。ポンペの医療に対する真摯な姿勢を垣間見る言葉が残されている。「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい」。



■シーボルト胸像
(長崎市鳴滝町:シーボルト宅跡,
  路面電車・新中川町下車10分)
 シーボルトは,1823年(文政6),出島のオランダ商館医として長崎に派遣され,絵師川原慶賀や全国から西洋学問を学びに来た学者たちの協力を得ながら,日本の調査・研究を行い,その成果をヨーロッパに紹介。日本に近代西洋医学を伝えるとともに,日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した。「シーボルト宅跡」は,出島に来たシーボルトの令名を慕って集まる多くの学徒や診療希望者のため,長崎奉行が出張教授を許した鳴滝塾跡(国史跡)である。ここから幕末に蘭医として活躍した高野長英,江戸の種痘所開設に尽力した伊藤玄朴,大坂で眼科医として名声を博した高良斎などが輩出した。




■如己堂
(長崎市上野町:長崎市永井隆記念館,
  路面電車・大橋駅下車10分)
 原爆落下中心地から北約1キロメートルのところに,2畳ほどの小さいバラック小屋が今も残っている。ここが故永井隆博士の生前の住まいであった如己堂(にょこどう)である。如己堂とは「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から博士が名づけられたものである。
 永井隆博士は長崎医科大学の助教授として,多くの患者を治療していたことから白血病となり,あと3年の命と宣告された。さらに,被爆して重傷を負いながらも被爆者の救護にあたられた。その後,白血病が悪化し,近所の人々の好意を得て建てられたという如己堂で病床に伏すなかで6年間,多くの著作活動を通じて「祈りの長崎」の象徴的存在となったが,昭和26年5月1日に永眠された。如己堂の裏にはこれらの資料を収めた永井隆記念館(開館時間9:00〜17:00まで,入館料100円)がある。

参考資料:長崎Webマガジン(http://ns.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0202/),シーボルト記念館HP(www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/siebold/),長崎市永井隆記念館HP,「長崎県の歴史散歩(山川出版社)」
長崎平和宣言ホームページ
(医療科学通信2004年4号)

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