スクリーンのなかの医事法
第4幕「静かなる決闘」
1949年日本(大映・東京),監督:黒澤明
前田 和彦(九州保健福祉大学)

題名:
静かなる決闘
発売元:
角川大映
ジェネオン エンタテインメント
 第4幕は『静かなる決闘』である。主演は世界のミフネ(三船敏郎)であり,監督は世界の巨匠クロサワ(黒澤明)が手がけている。そうなると構えてしまう方もいるかもしれないが,疾病(梅毒)の恐ろしさを啓蒙するかたちを借りたヒューマニズムあふれる作品である。また,恋愛物語でもある本作を盛り上げる音楽(『ゴジラ』の伊福部昭)もすばらしい。
 時は太平洋戦争さなか,若い軍医藤崎(三船敏郎)は,手術中に患者の中田(植村謙二郎)から梅毒をうつされてしまう。ふとしたミスから小指を切り,その傷口から感染してしまったのだ。そして戦地を点々とするうち,藤崎は薬もろくにないなかで病気をこじらせてしまった。やがて終戦を迎え,彼は婚約者の待つ日本へ喜び勇んで帰るはずだった。梅毒さえなければ……。
 婚約者の美佐緒(三条美紀)は生真面目で気丈な性格であり,戦中からすでに6年も藤崎からの結婚の申し出を待っていた。だからこそ藤崎は完治には長い年月のかかる(当時)梅毒に感染したことを美佐緒に言い出せなかったのだ。そのことを話せばきっと美佐緒は治るまで待つと言うに決まっている。「彼女の青春のすべてを犠牲にさせる勇気は僕にはない」と,藤崎は自分のことをあきらめるよう彼女に冷たくするしかなく,実の父(志村喬)からも美佐緒への仕打ちを責められていた。やっとのことで父には病気のことを打ち明けるが,立ち聞きしていた看護見習い峯岸(千石規子)には,普段高潔なことを言っているのに梅毒に感染していると,理由を知らずに誤解されてしまう。
 ある日,相変わらず人道主義を口にする藤崎と峯岸は口論となった。そのなかで藤崎は今まで心の奥へねじ込んでいた美佐緒への思いと苦悩を峯岸へすべてぶちまけてしまう。真実を知った峯岸は藤崎のこれまでの耐えがたかったであろう胸中と自分の浅はかさに号泣する。そして医師としても人間としても誠実な藤崎の姿に自らの人生観さえも変えていくことになるのだ。
 このクライマックスの撮影時,三船敏郎と千石規子の熱演は監督やスタッフさえ心底感動させた。黒澤は涙を拭きながら撮影するカメラマンがカメラ・フレームをはずさないかと気になってカメラマンばかり見ていたという。


■ 今の日本の法制度なら
 本作が公開された1949年当時,梅毒は施行されたばかりの「性病予防法」によって予防対策がとられていた。『静かなる決闘』はその感染症予防に対する一般への教育映画として製作された一面もある。
 現在の法律で梅毒は「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(以下「感染症予防法」)の四類感染症としてインフルエンザやHIV感染とともに区分されている。そして内容的にも「感染症予防法」は「性病予防法」とは違い,患者の人権に配慮し,特に個人情報の保護に留意することが条文自体に盛り込まれている。現行法規でも全数報告が義務づけられている梅毒だが,サルバルサンをただ何年も打ち続けて長くはかない治療をしていくしかなかった時代とは感染症への見方も変わってきたといえる。しかし,本作で三船演じる藤崎が見せた誠実な医師の姿は今に残してほしいものである。


■ 筆者の独り言
 黒澤自身は本作を失敗作とも考えたらしい。それは原作(菊田一夫)と違い,当時梅毒が治る病気になっており,当初のシナリオではラストで藤崎が発狂するというものだったものが,GHQの働きかけもあって中田のほうが発狂することになってしまった点などであろう。ちなみに三船は後に『生きものの記録』や『蜘蛛巣城』といった黒澤作品で発狂する役を演じるが……。確かにラストで主人公が発狂すれば,壮絶なクライマックスになったかもしれない。それでも多くの見所があるのも事実だ。冒頭の野戦病院での緊迫した手術シーンと豪雨のコントラスト,前述した藤崎と峯岸の激しい心のぶつけ合いは見事としかいえまい。
 そして本作の真の主人公は千石規子演じる峯岸なのかもしれない。峯岸の藤崎への思いは,人道主義へのうっとうしさから始まり,感染への軽蔑,そして真実を知り尊敬へと変化し,最後には深い愛情を抱くようになる。それとともに峯岸の成長すら感じられるのだ。彼女が登場したときとラスト近くの表情では別人のそれである。婚約者役の三条美紀を静とすれば動である。このコントラストも本作の魅力となっている。女性を描くのが苦手と言われる黒澤だが,峯岸は生き生きとスクリーンを駆け抜けていった。
 

 
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執筆者の著書: 医事法セミナー(上)医療・患者編
医事法セミナー(下)福祉・生命倫理編
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