安本 正(元・放射線医学総合研究所研究部長)
わが国の放射線防護の源流を語る
聞き手:衣笠達也(原子力安全研究協会放射線事故医療研究所副所長)
衣笠 安本先生は,わが国における原子力の揺籃期に医師として保健衛生の面からかかわられ,大きな足跡を残されました.きょうはそのお話をじっくりお聞きしたいと思いますが,まずは先生と原子力あるいは放射線防護のかかわりはどのように始まったのでしょうか.



安本 正
安本 1945年,僕は横須賀・野比の海軍病院に見習い医官として招集されました.まだ東京大学医学部を卒業する前のことです.そして,そこで原子爆弾の情報を知ったのですが,それが僕と原子力との最初のかかわりといってもいいかもしれませんね.しかし当時の僕には,特殊な爆弾であり,とても強力なものであるということぐらいしかわかりませんでした.

 それから,終戦を経て医学部を卒業した僕は,大学の先輩の紹介で北海道の三井美唄炭鉱で,産業医として働く人たちの健康管理に3,4年ほど携わりました.その炭鉱での経験は,後に「塵肺法」が制定される際の医学的な基礎づくりにかかわるうえで大いに役立ちました.

 その後,医師の労働基準監督官が不足しているという話を聞いた僕は,1950年でしたか,その試験を受けて合格,労働省労働基準局労働基準監督官として採用されました.学生のときから希望していた産業医学の本道に帰ることができたと喜んだものです.そしてそこで働くなかでぶつかったのが,1954年3月1日のビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験に伴う日本の第五福竜丸の被ばく事故です.治療にあたったのは,東大病院と国立第一病院でしたが,その乗組員たちは労働基準法に従って労働者と見なされましたので,彼らの障害には労働基準法が適用されることになりました.そこで,放射線障害の知識なんてほとんどありませんでしたから,東大放射線科の中泉教授のもとに行っていろいろと勉強させていただいたものです.これが,放射線の問題に直面した最初ですね.



衣笠達也
衣笠 たいへんなご経験をなさったわけですね.「放射線障害防止法」の制定に関与されたのもそのころのことですか.

安本 そうですね.当時,人事院におられた故・井上武一郎先生と2人で,科学技術庁の全身である部局の課長(医師)のところへしばしば呼ばれ,「放射線障害防止法」の原案などを議論したことを思い出します.当時,労働省での主な仕事は珪肺対策でしたので,放射線障害予防の分野に割ける時間は限られていました.それでも,成書や特殊パンフレットなどで,また,中泉教授にも教えを請い,放射線障害の病理,治療および予防について一応の知識を得ましたが,このような付け焼き刃の知識では原爆を受けた日本の復興に向けてひとつの力と期待される「原子力」導入を進める人々のなかに入って,十分な貢献をすることは不可能だとまでは思わないものの,とてもたいへんなことであると考えていました.

 そんなとき,偶然ですがフルブライト奨学金による米国への給費留学の試験を受けることを先輩から進められ,1955年の試験を受け,その翌年の春に補欠で合格したという知らせを受け取ったのです.補欠者などにはとても合格は回ってくるはずはないと思っていましたが,3月になって突然「奨学金留学生として約12か月の奨学金を与えてよいことになったが,ついてはどこへ留学して,何を勉強したいか」ということを,日米教育委員会から聞いてきたので,ペンシルベニア州のピッツバーグ大学で産業医学を勉強したいと申し入れて了承されました.

衣笠 そのように先生はフルブライトの最初の留学生になられたわけですが,そのころの医学関係で行かれた方々は戦後の新しい医学を取り入れに,もちろん先生も新しいものを取り入れに行かれているわけですけれども,普通には例えば心臓外科とか脳外科とか,それから麻酔のコースなどをとられている方が多いんですが,先生は,ピッツバーグのコースを終えられた後ロチェスターで放射線防護の勉強をなされていますよね.そういう意味では非常にユニークな観点を持っておられたと思うんですけども.

安本 そうですね,僕もこういう医者がこれからも何人も出てくるとは思えませんけどね.それでも,当時の僕にとっては,「原子力による障害と予防」というテーマは,あくまでも産業医学の保健衛生という本道に対しての小さな脇道のひとつにすぎませんでした.ところが,1957年になってコースを修了する1,2か月前に,指導教官であった教授が「今度,ウエスチングハウスという会社がピッツバーグ郊外に原子力発電所を建設したが,その創業前に見学に行けば原子炉の内部まで案内できる」といってくれました.初めはあまり関心を持たなかったのですが,仲のよくなったアメリカ人の学友が「これはとてもよい話だ.あなたの国でも原子力の平和利用に関心を持つ人々がいると聞いている.日本にもやがて原子力発電所もできると思うが……」と誘ってくれましたので,見学することにしました.いまから考えると,この見学こそ僕のそれからの人生を180度変えてしまう大きな出来事であったと思います.その原子炉は加圧水型で,∩型の大きな鉄のタンクのなかに原子炉の本体が置かれその概観からして人を威圧するようなものでした.それが,ピッツバーグを流れる2本の大きな川の河岸に建てられ,冷却水としてその川の水を利用していました.20〜30万kWの比較的小さな原子炉であったと思います.現在では,日本でも100〜120万kWの原子力発電炉がたくさん見られますから,ここ50年の原子力の発展は大したものですね.ともかく,そのとき僕は,これからの産業医学は「原子力」を内蔵したものになるに違いないと感じ,その障害と予防が大きな分野になるだろうと感じたものです.

 そこで僕は,もう少し本格的に原子力の保健安全について教えてくれるコースはないかと指導教官に尋ねたところ,4つの大学にそうしたコースがあることがわかり,そのひとつニューヨーク州のロチェスター大学の試験を受けて合格しました.幸い,ロックフェラー財団の奨学金を得ることができ,また労働省でも,新しい産業分野として放射線の問題が起こってくるだろうからと,1年間の留学延期を認めてくれました.

衣笠 先生のお話をおうかがいしていますと,だんだん原子力に惹かれていかれるわけですけれど,やはり最初のひとつのきっかけというのはビキニの第5福竜丸の事件にあるのでしょうね.それで,労働衛生の勉強ということでアメリカに行っておられたわけですが,さらに新しい労働衛生環境といいますか,産業分野として原子力があるということで,その産業衛生の勉強をなされて最終的にロチェスターで学位をとられたわけですね.

安本 ロチェスター大学での放射線防護のコースは僕にとってはたいへんすばらしいものでした.午後はしばしば,アメリカの若い技術者たちと一緒に放射線測定や緊急時のモニタリング,被災者救護などの実習をし,夜遅くまで議論したことは楽しい想い出です.このときの経験は,帰国後放射線医学総合研究所で同じようなコースを組織して実行する際にとても参考になるものでした.

 そして1958年6月,「公衆衛生」と「放射線防護」という2つの学位を得て,僕は帰国の途につきました.日本ではこの時期,原子力の平和利用についての議論がさかんになっていました.政府は,日本原子力研究所や放医研を設立し,また日本原子燃料公社や日本原子力発電所株式会社を創設するため,多くの学者や技術者を主に米国に派遣して知識や技術の吸収に力を入れていましたので,帰国がこれと重なった僕は選択の余地なくこの渦中に巻き込まれることになったのです.そして,放射線影響の研究室ができた東大からも誘われましたが,学生のころから民間の研究所と関係して勉強していたこともあって,大学以外の研究所の一員となるほうがよいと感じて放医研に入ったわけです.

衣笠 そこで,私もお世話になりました放射線防護コースをおつくりになったわけですね.

安本 当時,わが国には原子力の障害とその予防についてのシステマチックな研修コースはありませんでしたので,日本の原子力開発に携わる研究者や技術者の方々が安心して活動できるそのようなコースをつくろうと,やはりロチェスター大学で学ばれた故・伊沢正実氏と相談して,1958年度に約3か月間の放射線防護コースを開設したのです.このコースは,その後長い間放医研独特のコースとして続くことになりました.原研や原燃などが行ってきたコースは理工学系の人たちが中心であったのに対して,放医研には医師や生物学者が多数集まり,また施設の面でも医学や生物学の研究を行う態勢が整っていったからです.

衣笠 その後,IAEAに行かれることになるんですね.

安本 そうです.1960年の春まで2年間そのコースの準備と実施に力を注いだ後,放医研を休職してウィーンのIAEAで,発展途上国に保健物理の専門家を派遣したり,ウランの採鉱採掘を安全衛生の面から助ける仕事などに携わりました.この間に各国の実情を知ったことは,その後大いに役立ったと思います.

衣笠 私たちはいま,ご存じのように緊急被ばく医療のコースを立ち上げて実施していますが,わが国の原子力利用の草創期からその安全衛生の分野にかかわられ,また世界の実情もつぶさに見てこられたご経験から,どのようにお感じなっていらっしゃいますか.

安本 わが国は原子爆弾によって甚大な被害を受けた世界唯一の国です.広島,長崎の両市で多数の死傷者が出たわけですが,今後二度とこのようなことが起こらないよう心より希望します.私たちは「緊急被ばく」という言葉を「予期できなかった,原子力より生じる放射線による被ばく」という意味に用いていると思います.放射線被ばくによる障害は全身または局所に生じる大変複雑な身体障害で,その本質はいまだ解明されない部分も多く,「緊急被ばく医療」はこの複雑な障害を治療する,大変幅の広い医療行為です.衣笠先生には,この分野をさらに関係者に啓発していただき,国民の安全に貢献していただくことを期待しています.

衣笠 ありがとうございます.先生の原子力を中心としたわが国の放射線防護の始まりに関する貴重なお話をお聞かせいただき,物事の“歩みの重さ”を実感させていただきました.先生が言われたように「緊急被ばく医療」は複雑な障害を治療する大変幅の広い医療行為です.すなわち放射線という物理エネルギーが細胞のDNAに与える影響をはじめとする一連の生物反応全体を対象とする医療であり,しかも事故という危機管理的な側面を有する医療体制をも含んでいます.この医療に今後とも,ひるむことなく仲間たちと挑戦し続けたく思います.


(医療科学通信2006年1号)
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