ポストゲノムとラジオロジー
―遺伝子医療における放射線技術の今後―
水野 大(徳島大学 分子酵素学研究センター)
 DNA二重らせんの解析から約50年,遺伝子研究分野最大のプロジェクトであったヒトゲノム計画の完了が宣言され,遺伝子診断・治療に劇的な変化をもたらす大きなインパクトとなった.
 生物に存在する全DNA,ゲノムはその生物の全タンパク情報が記された「生命の設計図」である.ヒトゲノムのデータを解析することで,先天性異常,痴呆,がんや老化など人間の宿命的な現象や疾病に対する対抗手段を手に入れうることから,ヒトゲノムは多くの研究者の注目の的となった.

 従来の遺伝子医学研究は,個々の病態・生体機能などからさかのぼって,これに関係するDNAの一部分を場あたり的に見つけ出し,これに対して解析を行うような方法が主流であった.こういうやり方は非常に部分的で,DNA全体を見通しての網羅的な解析を行うことができない.そこで1990年に米国立衛生研究所(NIH)の主導により国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」が動き出した.この計画はヒトDNAの全塩基配列を解読し,遺伝子と定義されるヒトタンパクの設計図となる区画をすべて解析しようというものであった.2003年4月の計画完了宣言を受けて,NIHは「新規な発病メカニズムの解析」,「テーラーメイド医療」をはじめとするポストゲノム時代の医学研究のロードマップを提唱した.

 従来生活習慣病などといわれる糖尿病などや特定の家系や地域に頻発する種々の疾病の発症メカニズムには,遺伝子の関与が推定されている.従来の研究方法では多くの場合,こういった遺伝子性疾患に関与する遺伝子異常を1つしか同定できない.疾病の原因遺伝子は1つとはかぎらず,むしろ遺伝子疾患のかなりの部分を占めるのは,いくつかの遺伝子異常が複合的に原因となる多遺伝子疾患であると考えられている.それゆえ,これまでは遺伝子疾患の発症メカニズムの解析を部分的にしか行えず,決定的な医療戦略を立てることができなかった.患者さんの遺伝子のどこに異常(変異)があるのかを網羅的に探索することができるヒトゲノムのデータベースは,こういった多遺伝子疾患発病メカニズムの同定に際して強力なツールとなりうる.

 発病に関連する遺伝子変異を同定することで,その患者さんに変異が見られる遺伝子が本来つくるべき「正しい」タンパクを用いて病状を改善することができると考えられている.こういった遺伝子治療の方法として現在さかんに研究されているのが,治療薬となりうる正しいタンパクをつくるベクター(運び屋)遺伝子を作成し,これを患者さんの体内に導入してタンパクをつくってもらうという方法である.同様の方法で例えばがんの治療のために細胞を自殺させる命令(アポトーシス)を出すタンパクの遺伝子を導入してがん細胞を殺すといった試みが研究されている.また,直接的な疾病ではないが,同じ治療薬であっても,ある人には効き目がない,あるいは逆に副作用が出るほど強く効きすぎるといったことがときおり見られ,薬剤の投与・処方などを行うにあたって問題となっている.近年,体内で薬物を分解する酵素や,薬効を発揮するために必要な受容体などの遺伝子に変異があることからこういったことが引き起こされるということがわかってきた.これら多遺伝子疾患や薬剤投与における効果・リスクの早期でかつ効果的なスクリーニングが,原因遺伝子変異が同定されることにより可能になる.遺伝子変異の早期発見によって,がんや糖尿病のような加齢や環境因子などが引き金になって病気を引き起こす潜在的な遺伝子疾患に対する予防的治療や,ある患者さんに対する薬剤投与の効果・副作用を予測し,最適な医療行為を選択する「テーラーメイド医療」の実現が可能になる.

 ここ数年NIHのDirectorに放射線学者が数多く任命され,放射線学者Pettigrew博士を所長とする医療・バイオイメージングのNIH研究機関が新設されるなど,ポストゲノム時代の医療技術開発に放射線技術が注目されている.NIHはヒトゲノムプロジェクトの成果によりテーラーメイド医療が2010年ごろには実現,2020年には遺伝子治療が全盛期を迎え,がん,糖尿病などの治療薬として遺伝子を基盤とした製剤による治療法が確立されると予測している.これらを支える遺伝子イメージングに放射線技術を応用することが期待される.

 放射線技術を応用した遺伝子診断・治療を臨床応用レベルに導入するためには,まず診断においては,なるべく少量のサンプルで行え,かつ複数の遺伝子変異を網羅的に探索できることが重要である.こういった原因遺伝子のスクリーニングに適した技術にはDNAチップがある.これは同じ配列を持った遺伝子同士は互いに結合できるという性質を利用した技術で,あらかじめガラスやシリコンなどの基盤上にある遺伝子の断片を格子状に結合,そこに患者さんの遺伝子を反応させ,基盤上の正しい配列の遺伝子に結合できるか否かで正しい遺伝子を持っているか否かを判定できる.臨床応用のために,現在さまざまな病因遺伝子に対応したチップの開発がなされている.

 次に,遺伝子治療においては,先に述べた遺伝子を患者さんの体内に導入するような治療法の実用化のためには,

遺伝子が目的の臓器に正しく到達しているか.
遺伝子の導入は一時的なもので,治療目的の達成によってタンパクの作成を止めることができるか.

といったことが課題になる.これらの課題をクリアするために必要なのが,遺伝子が体内のどこに導入されたかということを調べる技術である.現在,PETなどを応用した遺伝子イメージングの実用化が期待されている.PET(陽電子放出断層撮影,positron emission tomography)は標識された薬剤を被検者に投与し,その分布を断層画像に撮影することによって,臓器の局所機能を画像診断する検査法である.現在このPET技術の向上により,臓器レベルから分子レベルの検出を行う試みがさかんに行われている.

 DNAチップやPETなどを応用した遺伝子検出法の開発に,放射線や蛍光物質などが標識物質として用いられている.遺伝子診断にはDNAという分子レベルの物質を対象とすることから高い精度が要求される.放射線標識法には,

他の検出法と比べて検出感度がきわめて高い.
目的遺伝子とは別に蛍光物質を併用しなければならない蛍光標識とは異なり,標識したい遺伝子を構成する原子を同一種類の放射性元素と置き換えることで,放射線を出すこと以外はもとの遺伝子とまったく同じ振る舞いをするものを用いることができる.

という利点があり,高感度でかつ治療・診断の効果を妨げないスクリーニング法の開発が期待できる.DNAチップ法に用いられている検出法は蛍光標識法が主流であるが,高感度な放射線標識法を用いた検出法を開発することにより,検査サンプル採取量を減らし,患者さんの負担の軽減を図れる.また,現在放射線標識された遺伝子の体内分布をPETによりスクリーニングするなど,放射線を用いた遺伝子イメージングの試みが動物実験レベルで行われている.将来,放射線標識した遺伝子を導入,PETによってスクリーニング,コントロールすることで遺伝子治療の効果を高めると同時に遺伝子導入の副作用などリスクの軽減を図ることが可能になるかもしれない.

 ヒトゲノム計画完了宣言後,医療研究分野は遺伝子を中心に大きな転換期を迎えている.放射線学研究分野も,従来のエレクトロニクス的な技術革新にとどまらず,遺伝子やその産物であるタンパクのおりなす生体の分子メカニズムに目を向けることで,分子生物学の融合した新しい放射線医学研究領域が開かれつつある.この新領域の発展を大いに期待したい.
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