放射線と免疫・ストレス・がん
出版にあたって
佐渡敏彦

 私は生涯の大部分を「放射線と免疫」を中心に放射線の生物影響の研究に関わってきた。私は平成5年(1993)に定年退職したが、放射線と免疫を主題とする総括的な書籍を上梓することは、定年を迎えた時点で私が私自身に課した宿題であった。その理由は、このようなタイトルの学術書がこれまでわが国で出版されたことは一度もなかったこと、そして、私自身が放射線と免疫の両分野にまたがる領域で研究をつづけてきた数少ない研究者の一人として、このようなタイトルの学術書の出版が必要であると強く感じていたことによる。しかし、この作業には予想以上の歳月を費やすことになった。その主な理由はこの本で私がどうしても明確にしておきたいと考えていたいくつかのトピックス、特に「発がん過程における免疫系の役割」と「ストレスによる発がんリスク」、について私自身が納得できるだけの研究情報が得られていなかったことによる。しかし、最近10年余りの間に、これらの領域における目覚ましい研究の進展によって、定年退職後22年目にしてやっと、何とか自分なりに納得のいく形で本書をまとめあげることができた。私がこれまで「放射線と免疫」の問題にどのように関わり、どのような問題意識で本書をまとめようとしたかについては、医療科学社のホームページに掲載されている本書の「まえがき」にくわしく述べておいたのでそれを読んでいただきたい。さらに、同じホームページに掲載されている本書の目次からわかるように、本書は序章とそれにつづく7つの章から構成されている。

 序章はいわば本書の導入部で、放射線と免疫についてなじみのない読者のための入門編である。

 第1章では、免疫学の基本ともいうべき病原生物に対する生体防御の基盤となる多様な種類の免疫系細胞とそれらの役割分担、およびそれらの細胞が異物(抗原)を認識するしくみ、およびそのような異物認識から免疫機能発現にいたるまでの自然および獲得免疫の複雑な細胞間相互作用(クロストーク)のしくみの概要について、特に歴史的な視点から記述した。何事も歴史から入るのが物事の本質の理解に近づきやすいと考えるからである。

 第2章では、獲得免疫応答において抗原刺激を受けた特定のリンパ球クローンの増殖(拡張)とその抗原に対する特異的な免疫記憶の成立とその維持のしくみ、および免疫応答に影響を及ぼす内的(遺伝的)・外的(環境的)要因について記述した。

 そして、第3章では放射線が免疫系にどのように作用するかについての一世紀以上に及ぶ研究の歴史をかなり詳しく述べた。チェルノブイリ原発事故や福島の原発事故を身近に見聞した若い世代の研究者には、将来再び起こる可能性のある同様の事故に対処するためにも、放射線の造血・免疫系への影響に関する研究の歴史、すなわち過去にどのような研究が行われ、何がわかり、何がわかっていないかをしっかりと理解しておいて欲しいと考えるからである。この章では、放射線が造血・リンパ系の細胞に及ぼす影響について、できるだけ定量的な線量反応(被ばく線量と影響の大きさとの関係)に関するデータを示すとともに、放射線が免疫のしくみを理解するためのツールとしていかに大きく貢献してきたかについても述べた。

 第4章では、現在、白血病の治療法としてかなり広く普及している骨髄・造血幹細胞移植に関する研究の歴史と、この領域の研究の現状および骨髄・造血幹細胞の移植によって誘導されたキメラマウスを使ってT細胞による「非自己」の抗原認識のしくみ(MHC拘束性)が決定される条件に関する研究の歴史と現状について述べた。造血幹細胞移植の臨床領域での研究の成果はED Thomasの1990年度のノーベル生理学医学賞受賞として実り、基礎領域でのMHC拘束性に関する研究の成果はRM ZinkernagelとPC Dohertyの1992年度のノーベル生理学医学賞受賞として結実した。

 第5章では、造血・免疫系への放射線の晩発性効果と低線量放射線の免疫系へのホルミシス作用(生体にとって有益に見える作用)についての研究の過去および現状とその問題点について考察した。

 第6章ではがんと免疫監視および放射線によるがん治療と免疫の問題をとりあげたが、この章で私がいちばん明確にしたかったことは、がんと免疫との関係を、免疫系細胞ががん細胞を見つけてそれを攻撃するという側面だけではなく、ある標的組織あるいは臓器に、発がんのきっかけとなるストレス事象、例えば、放射線、発がん剤、プロモーター(発がん促進剤)への曝露あるいはがんの原因となる病原体の感染など、が発生してからそれらの標的組織あるいは臓器に自律性をもったがん細胞が発生するまでの間に、どのような免疫生物学的過程が進行しているのかを具体的なイメージとして把握することであった。この過程の十分な理解なしには、がんの発生と免疫との関係を本当に理解したことにはならないし、低線量域における被ばくと発がんリスクの問題を正しく評価することはできないと考えるからである。

 そして、このような視点からがんと免疫の関係についての最近の研究の展開を見ると、がん細胞が発生したあとで、免疫系ががん細胞を攻撃してがんを抑制するというこれまでの免疫監視あるいは免疫編集とよばれるしくみとは明確に区別できる免疫事象が存在することが明らかになってきた。この章では、また、放射線によるがん治療において、がんの治癒過程に免疫系が重要な役割をはたしていることを示すいくつかの証拠を示した。現在では、放射線治療医にとって放射線と免疫系とがんとの相互作用を理解することは不可欠の要素になりつつある。

 そして、本書の最後の第7章では、放射線とは直接の関係はないように見える「ストレスと免疫と発がんリスク」の問題を取りあげた。その理由は、この問題が原発事故によって環境中に放出された放射性物質からのごく低いレベルの放射線に被ばく、あるいは放射性物質で汚染された地区から避難せざるを得なくなった多くの被災者の心理的および身体的ストレスに起因する発がんリスクを含む健康問題に深く関わっているからである。この章に提示された多くの知見は放射線被ばくとは関係のない、人の日常生活におけるストレスと健康の問題を考える上でも、重要な示唆を与えるものと思われる。

 本書の各章には、私自身が現役ならば今すぐにでも手をつけたいと考える多くの未解決の重要な問題が含まれている。注意深い読者は、それぞれの章から読者の関心に見合ったさまざまな興味ある問題を見いだすことができるであろう。本書がそういう読者に何らかの有益な示唆を与えることができれば著者にとってこれに過ぎる悦びはない。
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