偉大なる「ボランティア」活動
中村實医博が(社)日本放射線技師会の会長を引き受けたのが昭和43年4月だから,この人の「ボランティア活動」も20年を超えてしまった。わたしは,このように長年にわたって,このような偉大な仕事をなしとげた「ボランティア」を見たことはない。彼は,この仕事の前途に横たわる果てしない難事業に思いを馳せ,とても病院勤務の片手間に取り組めるような,なまやさしいものでないことを直感的に悟り,なんの未練もないかのごとく病院を退職し,会長業に専念した。このことは,彼を遮二無二引っぱり出して会長を押しつけてしまった私達にとっては大いなる驚きであったばかりでなく,大変な責任感にさいなまれる日々が続いた。ただ,この会長は,そのようなことなどに頓着することもなく,次々に巨大なハードルを跳び越えてとどまるところを知らない。ただ,ひたすらに走り続ける。
わが国ではじめて開かれた国際会議(1969年)を見事に成功させ,教育会館を建て,今度は鈴鹿市に教育センター,そして鈴鹿医療科学技術大学の理事長として待望の四年制大学の開学が間近に迫っている。その間,2回にわたる技師法の改正,思いやりキャンペーンに先鞭をつけ,WHOの研修センター長として開発途上国の人々と手を結び,国際放射線技師会副会長として会員に国際感覚を植えつけて来た。渡辺美智雄理事長を中心として創設された国際医療技術交流財団は,中村会長を特に常務理事として迎え入れ,会長の手がける任務はただ一途に拡がるばかりである。
鈴鹿医療科学技術大学の理事長という職務は恐らく大変な激務だと思われる。従って,文部省当局からも,大学発足と同時に技師会長職を離れるようにとの要望があったという。会長は,その点,きっぱりと辞めたいと言ってこられたので,私も,「それがよい」とはっきり進言しておいた。20年以上にもわたって偉大なボランティア活動をしてもらって,これ以上の無理をしていただきたくなかった。盛岡での学術大会に出席した会員の報告を聞き,会長の健康状態を心配する声が強かったので,私は後任の選び方について色々と会長に進言して,とにかく「健康第一に考えてほしい。貴兄が倒れたら凡てを失うことになる」と説いた。しかし,考えてみると,今会長に去られたら技師会の運営は果たしてどうなるだろうか。私は,「名誉会員とか顧問格として適宜に指導してもらえれば,それでいいんだ」と進言したが,一般会員の要望は,私とは少し異なっていたようだ。やはり,会長に留任してもらわねばということで,文部省当局としても,技師会の内部事情をご諒解いただいたらしい。有難いことだが,私にはやはり,会長の健康が気がかりである。
国際放射線技師会もシンガポールのバイスリンガム元会長やオーストラリアのG・ライアン前会長らから中村博士の会長就任を要請されたが,中村会長は大学設立を目前に控えて手が離せないので,これも断ってしまった。私は,会長を「引受けなさい」と進言した。副会長よりも国際技師会の会長に就任すれば,厚生省や文部省の受止め方も大きく変わるだろう。「大学設立の段階で,それは大いにプラスになるはずです」と進言したが,これも外れてしまった。とにかく,中村会長が国際技師会は副会長のままで,ちゃんと大学はできたのである。
以上色々と述べてきたが,読後感とはおよそ縁のないことを書いたと思われるかも知れぬが,「21世紀への胎動」を読んでみると,私が今述べてきたようなことの裏に会長の理想や苦悩が余すところなく語られているのである。そして大学の特長についてもよく語られている。本著の115頁には今後の大学に設けられる「医用工学部」が日本で初めて設けられる学部であることが述べられ,さらに私立大学と国立大学とのギャップにも触れ,117頁では「医療機器企業が日本の大学に共同研究の研究費を支出している例は少なく,ほとんどがアメリカの大学に研究費をつぎ込んで共同研究がなされているようだ。またアメリカの大学はそれができる機構になっており,産学協同の協定を結ぶために,頻繁にアメリカから日本に来ては企業と接触しているということを聞く」云々とあり,中村理事長のねらいの一端が伺われて楽しい。118-119頁では「私学は学生が中心である」と言い,「病院においては患者が中心であり,大学においての中心は学生でなければならない」と説き,官学にチクリと針を刺し,学生に対しても「思いやり」人間教育に力を注ぐことを目ざしていることは,私達も最も共感するところである。
幸い,最近会長は健康状態も良いらしい。この人は,理想を追い求め,次々に高い壁に突き当たる毎に闘志を燃やし続けた人であることが,本著を読むことによって理解することができる。
井上喜代太(福岡県) 日本放射線技師会雑誌(1990年12月号)より
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