医療・保健専門職は、人びとの心身の健康と機能の回復・促進を援助するという尊い使命を持っています。医療・保健専門職に就くための準備として、専門分野に関する最新の医科学的知識と技術の習得はもとより不可欠です。と同時に、よい人間関係がケアや癒しの過程を助けることに留意して、クライエント(client、以下、医療・保健サービスの対象者をこう呼びます)や同僚、その他の関係者との間に良好な関係を築くための準備をすることもきわめて大切です。教養課程のカリキュラムで学ぶ人間や社会や文化についての学問は、臨床医療や保健活動に直接関係がないように見えても、より深い人間理解に役立ちます。なかでも医療倫理や生命倫理は、生と死、病と癒しに直面したときの人の行為のあり方を考えさせてくれます。
伝統的な医療倫理の中心は医師のモラルでした。ところが、医学や医療技術の発達や医療専門職の分化によって、複雑な人間関係が生まれました。医療現場が病院中心となり、医療行為には医師や看護職だけではなく、診断や治療のための先端的な機器を扱う臨床検査技師や診療放射線技師、そして、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士などのリハビリテーション専門職、臨床心理士、臨床工学士、(精神)医療社会福祉士、管理栄養士など、多数の関連医療職の人びとが関わるようになりました。
これらさまざまな分野の専門職が、チームをつくって連携・共同して保健・医療活動を行うチーム医療のケースが増えています。そこで、効果的なチーム医療のために、また、複雑化した人間関係から生ずるあつれきやディレンマの解消のために、新しい医療倫理が必要となりました。
チーム医療の担い手として、さまざまな問題を経験するなかで、倫理的ディレンマに遭遇した場合、孤独に悩む代わりに、周囲の人たちと問題を共有し解消する道があります。現代社会に特有の問題について、皆で考えを出し合うことができます。複数の人びとがお互いに意見をぶつけ合い、協力して、古きよき価値を再確認し、新しい価値を創造していくことによって、難しい問題の理解を深め、問題解消への突破口をつかむことができるかもしれません。
私たちは、医療従事者としてのみでなく、現代社会に生きる人間として、あるいはいつか自分自身も患者になるかもしれない者として、生と死、病気と障害、成長と加齢、医療とケアの意味や問題を、日ごろから他人事でなく自分の問題としてよく考え、ある程度の態度決定をしておくことが望まれます。
本テキストは、臨床現場でさまざまな問題にぶつかったときに、落ち着いて考え、意見を交換し、合意に達することができるように、さらにはより開かれた民主的な人間関係が職場や日常生活で実現するのを期待して、編集されました。
このテキストは二部から成っています。第一部は、事例検討の方法、倫理的ディレンマ、現代人の採用すべき倫理原理とは何かについて考え、第二部は、保健・医療の臨床現場で実際に起こった、あるいは起こると予想される36の事例を集めた事例集になっています。私たちはこれらの事例を検討することによって、何が問題になっているか、当事者の行為の選択肢にはどのようなものがあるか、選択された行為の予想される結果はどのようなものかなどの分析や考察、提案をします。第二部の最初には「学習の進め方」として事例分析の手順が示されています。
行為や考え方の分析や判断をするときは、基準や尺度が必要となります。倫理的ディレンマは現代人にとって不可欠の倫理原理に照らして考えます。そこで、個々の事例にあたる前に、倫理の問題を考える際の思考の枠組みや現代医療の倫理を概観しておきましょう。巻末資料を参照しながら、話を進めます。
本書の第一版は2000 年1 月に発行され、幸いに好評で、増刷を重ねました。この間に医療・保健・福祉事情にも多くの変化が起こり、本書も新たな状況に対処する必要が出てきました。たとえば、病院など医療施設ではリスク・マネジメントの制度が取り入れられ、医療事故防止対策が積極的に行われるようになりました。また、医療・福祉に関する法律面では介護保険法が改正され、個人情報保護法や障害者自立支援法が施行されたことにより、高齢者の医療・福祉やリハビリテーション医療が影響を受けます。そこでこのたび、初版を全面的に見直し、事例も増やして、改訂増補版として発行することになりました。本書を活用してくださることを願っております。もし本書を使用する際にお気づきの点があれば、今後の出版に反映させますので、編著者にお知らせくださるようお願いいたします。
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